身体障害者となり落ち込んだか。
2016-05-22



禺画像]

      宗像大社沖津宮のある沖ノ島(世界遺産候補)の頂上から
           2003.5.27(脊髄損傷前)



重度の身体障害者となりかなり落ち込んだのではないか、周りの人はそう思っていたようだ。しかし幸運にも私はほとんど落ち込まなかった。その付近のいきさつを書き留めておこうと思う。

4年前のことだ。西鉄の高宮駅の階段で転倒し福岡大学病院の救急に運び込まれた。耳元で家内が呼びかけている、その声でぼんやりと意識が戻った。友達の家で仲間5人で食事会をしていた夜9時頃までの記憶はあるから、5時間くらい意識が飛んでいたことになる。ベッドに寝ている、身体が動かない、首が猛烈に痛い―重篤な怪我をしたとおぼろげながら了解しはじめた。医者が顔の怪我を麻酔なしで縫った。不思議と痛みは感じなかった。

数種のラッパが時々調子外れで鳴っている。自分が病院の救急に運び込まれたことが分かると、当直医が暇をもてあまして楽器の練習をしているのではないかと勝手に思ってしまった。救急車で運ばれてくる患者の容体を医師や看護士にいち早く知らせてスタンバイさせるための合図であると後日分かったが、このラッパのような音は前にも聞いたことがあるなあというデジャブ感があった。

腕が大根のように腫れあがって胴体と皮一枚で繋がっている感じがするが、首が動かないので確かめようがない。大変なことになってしまったようだ。手術は夜が明けてかららしいとなんとなく了解する。手術が終われば事態ははっきりするだろうが、重大な結果であっても受け入れるしかないなあと、朦朧とした意識の中で覚悟しはじめた。

翌日午後遅く手術室に入るとき長男が声をかけてくれた。仕事を休んで来てくれたのだ。5時間の手術が終わり麻酔も解けて意識が戻った。呼吸器をつけている。恐る恐る手足を動かそうとするが全く動かない。。寝返りもできない。ただ首の痛みは消えていた。頸椎骨折による脊髄損傷……これからどうなるのだろうか、ベッドに寝たきりにならなければいいがと思いはじめた。

数日後、呼吸器がとれて喋れるようになった。若い医師が看護士に ”この手の患者の何割かは痰で窒息死する” と話していた。翌日、気管支切開を願い出た、すぐに手術してくれた。これで痰を詰まらせて死ぬことはなくなった。週末、子供3人と家内がそろって見舞いに来ていた。”リハビリを頑張る” 私は自然にそう言った。

1週間位経って精神科の医師が診察に来た。大怪我をすると精神的に落ち込む人が多いという。60歳の時うつ病を発症し治療中である旨を告げた。トレドミンとミラドールという向精神薬と睡眠導入剤を飲んでいたので再度飲むことになった。うつ病は6年目を迎えていて症状は快方に向かっていた。それで友達の所での食事会に参加する気になったのだ。

発症当時はつらかった。私の場合、朝目が覚めた時が最悪で落ち込みのどん底にあった。そこから少しづつ気持ちを持ち上げようとするが、上がりきれない。そのうち夜になりまた悪夢の朝が来る。その繰り返しが3〜4年続いた。向精神薬も10種類位いろいろと試してみた。ブラックユーモアに「朝起きて今日も元気だ、薬が美味い。」というのがあるが本当にそれが目標の日々だった。


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[脊髄損傷]

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