I君の死に思う。
2017-01-28


脳梗塞のため会話というか話言葉に支障をきたし、退院したが弁護士の仕事はできなくなった。弁護士事務所は閉鎖した。東京に友人が多くいたこともあり、退院してからはよく上京していたという。その頃は仕事の道も絶たれ生活に困るようになっていたようだ。在京の友人達はI君の生活の再建のため尽力したようだが、I君は全くその気がなく、なぜか九州の古代史についての自説を述べるだけだったという。生活しようという気持ちが希薄になったのか、友人達はどうすることもできなかったようだ。福岡に戻っても自分の世界に入り込んだままでやがて離婚し、独り生活保護で露命をつないだ。

特筆することがもう一つあった。I君は住む所を頻繁に変えた。弁護士になってからでも、静岡、札幌、旭川、秋田、東京、横浜、鹿児島、福岡と転々とした。顧客あっての弁護士だから仕事の継続性はどうするのかと傍から心配していた。福岡の次は何処に行くつもりだったのか。かって奥さんが諦めたように話したことがある、Iとは結婚して以来正月休みを家族一緒に過ごしたことがない、Iは一人でヨーロッパ旅行をしていたと。放浪癖とでもいえばいいのだろうか。

50年前学生の時、I君は私に”人間はなぜ考えるのか”と話しかけてきたことがあった。私はたまたまその種の本を読んでいたので、そこに書いてあったことをさも自分の考えのようにして話した。彼は成る程といった顔をして聴いていた。彼は逗子に引っ込んで司法試験の勉強を始めた。のどかな早春のある日、彼を訪ねて山桜を見ながら湘南のなだらかな山道を一緒に歩いた。大言壮語をしない物静かな男だった。遠い過去のことだがつい昨日のことのような気がする。

I君は福岡で行路病者のような死に方をした。その変死体を父親だと確認したのは、現在福岡で弁護士をしているご子息だったという。親子で弁護士事務所をする道はなかったのか、と想像するのは結末が残酷だっただけに苦しい。福岡で生活保護を受けて独りアパートで生きていたならば、なぜひと言私に連絡してくれなかったのかと悔やんでも悔やみきれない。

東京のI君は弁理士、福岡のI君は弁護士、二人とも離婚して生活保護を受け最期は誰にも看取られず一人で死んでいった。私は古稀を過ぎ脊髄損傷で一日のうち2/3はベッドに寝たきりだがまだ我執を捨て切れず生きている。



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